2025年6月の竹内先生のコラム(お手紙)です。自筆を大切にしたいので、ファイルを張り付けています。
6月竹内先生のコラム 2025年6月
— 以下テキスト版 —
心を殺さない学校がほしい
毎月講読している雑誌の中に広木克行先生が不登校について書いている記事を見つけました。その中からいくつか抜粋して紹介します。
『心を殺さない学校がほしい』不登校の子どもたちから聞いたぐっと心にささる言葉です。先生からの評価のためにいい子を演じ、友だちから浮かないように調子を合わせる。学校が自分のままではいられず緊張が続く場所になっている。学校へ行きたくても行けないそういう心を表した言葉だと思います。「友だちの中にいるのが怖い」 教室で暴力やいじめが増えていること、競争教育の中で子どもたちが分断され、心許せる友がいない状況を示しているようです。そして「先生の大声が怖い」 教師が管理のために大きな声で指示を出す。子どもたちからすると、自分が怒られているわけでなくても怖くて教室に心の居場所がない状況を物語る言葉です。「もう終わりにしたい」 学校に行けない、自分が弱いからだと、親に心配かける自分が悪いって責めているのかもしれない。自分は消えてしまいたいと思っているのかもしれませんと語っていますが私も同感です。そして続けて「不登校は命の問題だと捉える必要があります。子どもが不登校になった時、ほとんどの親や教師はその原因を考えます。原因が分かれば解決策も見えてくるのではと思い過去の出来事について子どもに問い詰める場合が多いです。同時に将来の不安をかき立てて、子どもを学校へ戻そうとします。子どもを早期に学校に戻すことが個別的な解決だと思い違いしているケースがあまりにも多い。苦しんでいる現在の心を無視して登校を迫ることは心の傷を更に深める教育虐待です。親に知ってほしいことは原因を問わずに寄り添うことの重要性です。苦しんでいる子どもの言葉とその姿の意味に関心を持ち続けること、それが心の傷の癒やしにつながるからです。」と書いています。そして続けて「親が一方的に抱いてきた期待を捨てて、現在のありのままの子どもを受け入れる。その変化を私はアキラメの境地と呼んでいます。そこに至るまで、子育てを間違えたのではないか、子どもが弱いのではないかと親は苦しみます。その苦悩を抱いて相談に来られる親たちに出会う中で「この親がいてくれれば大丈夫」と感じるようになりました。」・・・親が子どもに「そのままで大丈夫」と伝えることができたとき親の変化を感じた子どもは、わが家が居場所で心を癒やすことができるのです。「心の傷」が癒えていくと、子どもは自分の気持ちを語りはじめ、気持ちが外に向いて動き出します。子どもは「育ち直し」の力が備っています。育ち直しの名人ですと。
そして続けて「学校は本来、点数の支配から解放され失敗が許される場所でなければなりません。多様な子どもたちが失敗を重ねながら一緒に学びを作っていく場所です。その教育で中心となるのは、子どもたちの興味、関心、意欲と科学の成果に根ざした教師たちの実践です。」・・・と書いています。学校は子どもと子どもがつながっていく所なのだと思っています。点数で優劣を競う所ではなく、心を殺されない学校であってほしい!!
同じ雑誌で広木先生の次のページに西野博之さんのお話も載っていたので紹介します。そこで「多くの不登校支援の中で不登校の理解が大人目線の『学校に行かない困った子』という問題行動とし、考えられています。大人が見ている不登校は必ずしも子どもの本当の気持ちをとらえられないのではないかと気づかされました。もし、学校が安心で安全で楽しく学び過ごせる場所であれば学校に行きたいという子どもたちはたくさんいます。だけど行けないから困っている。この『困っている子』への理解を大人たちもできればいいなと思っています。」という文から不登校の子どものことを語っています。私も不登校の子どもは困った子どもではなく、困っている、どうしたらよいか分からず不安で一杯の「困っている子どもたち」だと思っています。
そして続けて「みんなと同じことができないダメな子」という親の見方をどうやって切り崩すかというのは、不登校の子どもを応援するときの一番大事なことです。と。「子どもは人権のある一人の人間で、周りが学校に戻すとか、戻したことを成果と考えるような人たちに囲まれていたら、子どもは苦しめ続けられることになります。当り前のことができない自分はダメな子だと思っているうちは余計に動けないのです。子どもが十分に休んで親もたとえあきらめや落胆からでも、心から『あなたのままでいいよ』と、受け止めることができたとき、学校へ行けないという問題は、子ども自身の問題になります。権利の主体を子どもに戻してあげる、主体が本人に移行していくと自然に子どもは、自分から撰択して動けるようになる」と。「それでもやっぱり一日中ゲームをやっていたり、昼夜逆転して昼間に寝てばかりと親は心配です。でも、私が多くの不登校の子どもたちから教わたったのは『あのとき、ゲームがあったから生きてこられた。』と、望みも喜びもなくなってしまい自分なんか生きている価値もないと苦しんでいたけど、自分を追い詰めず助けてくれたのは目の前のゲームだったのです。ゲームを取り上げられていたら死んでいたと思うよという子どもたちが、ものすごく多いのです。」と書いています。そして「私は『食う・寝る・出す』が大事」とずっと言っています。親はこの3つに全力でアンテナを張ってほしいと思っています。これが できたら、もう親の役割は終了と言っていいと思うのです。」と。そして「私は、この居場所を作るのに38年かけました。その子の一番得意なところに光を当てた環境作りをしてきました。『学びたいことを学びたいときに学びたいように学ばせたい。』」と話しています。
不登校の子どもを『困った子ども』と見て、なんとかしなくてはと親が思ってアドバイスすればするほど、子どもは行き場がなくなり、学校へ行けない自分はダメな子と自分を責めることになります。西野さんが書いているように「ダメな困った子ども」ではなく、「行けなくてどうしたらよいか困っている子ども」と捉えたら親は子どもにいい教育を受けさせるとか、いい人生を送らせるとか、背負い過ぎるのではなく、子どもと一緒に成長していく「ゆるい親」でいいのですとも語る西野さんの言葉が心にしみました。子どもは自分から歩み始めるまで待ってもいいのではと思っています。
2025年5月26日 竹内春雄