【まなざしの先に】
第6話 ── まだある力、まだ続く光(ICFと“できる”をめぐって)
かつて、福祉や医療の世界では「どこが悪いか」「どれだけできなくなったか」が出発点でした。
けれど、ICF(国際生活機能分類)は問いかけます。―― 「どんな環境なら、その人は“できる”ようになるだろうか?」と。
ICFとは、2001年に世界保健機関(WHO)が提唱した、新しいものさしです。 身体のこと、こころのこと、そして社会との関わり。 人間を切り離さず、まるごと見ようとする「全人的」な視点。
その人の“人生”そのものが、もう一度歩み出せるように。 その人の“尊厳”が、もう一度あたたかく灯るように。
わたしたちにできるのは、ただ支えることではなく、 その人の内に「まだある力」に、光をあてることなのかもしれません。
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このコラムでは、日々の活動や地域での出会い、読書や小さな気づきを
「まなざしの先に」映る風景として綴っています。
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わたしが介護福祉士としてデイサービスで働いていた頃のこと。
90代半ばの男性、ご本人は認知症の診断を受けていましたが、 ある日のおやつ作りで、その手がまるで魔法のように動きはじめました。
左官職人だったその方は、ケーキの生地をだまにならずに丁寧に混ぜ、 ひとつひとつのカップに、まるで水面のようななめらかさで生地を流し込んでくれたのです。
わたしはよく、生地をこぼしてしまうのですが、 彼の仕上げたカップケーキは、どれも美しく、誇りが宿っていました。
それは、誰かに“作ってもらっている”ではなく、 “自分がふるまう”という、誇らしいまなざし。
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また、別の大正生まれの男性は、元エンジニアの方でした。
お饅頭を作る日。 餡を一つ20gに分ける作業を、真剣な眼差しで担ってくださったのです。
メモリに目を凝らし、ぴたりと量り、指先でまあるく整えていく。 そばにいて「はい、あと15個ですね」と声をかけると、 30個を正確に仕上げるその姿に、周りの誰もが心打たれました。
しかし、わたしが離れると、きれいに均等に丸く成形された30個の餡は、 いつのまにか大きなひと塊の餡へと姿を変えていました。
だからこそ、支援とは“全部やること”ではなく、 ともにそばにいて見守ること、そして機会を奪わないこと。
そんな「塩梅」を、わたしたちは日々、 表情やことばや、沈黙の間合いのなかで、手さぐりで学んでいるのかもしれません。
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ICFは言います。
“障害”とは、個人のなかにあるのではなく、 社会や環境との“関係性”のなかに現れるものだと。
つまり、できないことが「その人の問題」なのではなく、 「できるようになる条件」を社会がともに創り出せるかどうか。
誰かの手を握ること。 そばにいて、うなずくこと。 たったそれだけのことが、 誰かの人生をまるごと支える光になるかもしれないのです。
だから、「介護する」って、ただの技術ではなく、 ひとりの人間として、もうひとりの人間の“人生”にともに立ち会うこと。
それはまさに、 人生の最終章までの伴走者であるという、深いまなざしです。
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今、「みんなのリビング」では、 健康麻雀や手仕事を通じて、誰もが“できる”場をともに創っています。 パーキンソン病の当事者の方が、ご自分の体調と相談しながらいらしてくれて、麻雀初心者のかたをやさしく導いてくれています。
病気があっても、加齢の変化があっても、 “誰かに必要とされる”経験は、人生にとって何よりの再起動になる。
「できる」は、力じゃない。 関係性のなかで育っていく、あたたかな希望。
今は現場にはいないけれど、ICFの学びや介護の現場での経験は、
今のポーラスターの活動の根っこに、たしかに息づいています。
あの日、計量器の数字をのぞき込んだおだやかな横顔を思い出しながら、
今日もまた、誰かの“まだある光”を見つけたくて、小さな一歩を重ねています。
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次回もまた、まなざしの先で見つけた風景を、お届けします。
※現在、ボランティア基礎講座の参加者を引き続き募集しています。
ご関心のある方は、どうぞお気軽に中原区社会福祉協議会(なかはらボランティアセンター)までお問合せください。