【まなざしの先へ】
第8話:提灯の光と、語られた奇跡の日々
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このコラムでは、日々の活動や地域での出会い、読書や小さな気づきを
「まなざしの先に」映る風景として綴っています。
介護や福祉に関わるなかで感じた“気づき”を、やわらかく、等身大のまなざしで。
ふと心に触れるような出来事を、言葉にしてお届けします。
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あれは、たしか5月の、少し湿り気を帯びた風が吹く日だった。
専門学校に入って初めての実習。
私はデイサービスの現場で、少し緊張しながら、利用者さんたちの輪の中にいた。
そのとき、ひとりの90代の女性がぽつりと語った。
「東郷平八郎さんの戦勝祝いでね、提灯行列を見に行ったのよ。
一張羅の着物を着て、父に抱っこされて、揺れる提灯がね、それはそれは美しかったの」
その語りには、不思議な力があった。
記憶なのか、夢なのか、どちらとも言えないのに、まるで目の前にその情景が浮かぶようだった。
教科書には載っていない、人々の暮らしの営み。
そのひとつひとつが、歴史なんだと知った瞬間だった。
その時の衝撃が忘れられなくて、私はその場で心に決めていた。
「卒業論文は、このテーマでいこう」って。
先生にその話を書いた実習レポートを出したら、「聞き書き」や六車由美さんの著書を紹介してくれた。
介護される側の語りが、やがて関係性を変えていく――そのことが、私のなかで火種になった。
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卒業論文のテーマは、ずっと変わらなかった。
「認知症高齢者の語りが介護者にもたらす影響と、関係性の変容に関する質的研究」。
どうしても「老健におけるエスノグラフィー」というサブタイトルを入れたかった。
質的研究の進め方に悩んだ時期もあった。
でも、あの語りの力を知ってしまったから、進むしかなかった。
その視点で、2年間の授業と実習に取り組んだ。
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老健での実習では、3人の方の語りを記録した。
とくに心を打たれたのが、まだ働き盛りだった男性。
ある朝、激しい頭痛で目が覚めたときには、もう声も出せず、身動きひとつできなかった。
のちに聞いた話では、「血の海のなかに脳が浮かんでいた」ほどの危険な状態だったという。
それでも術後は元気になったような気がして、
リハビリを抜け出して、たばこを吸いに行ったりもした。
だけど、ある日、突然、手が思うように動かなくなった。
夜中、動かぬ拳を見つめて、こらえきれず泣いたという。
「会社行きたくないなって、二日酔いでぼやいてた日々があった。
でも、そういう平々凡々な毎日が、ほんとは奇跡だったんだよ」
この言葉は、今でも私の胸をつかんで離さない。
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何度も面会に行き、語りを重ねるなかで、彼は私にこう言った。
「俺の話、代弁してほしい。ちょっとの油断が、人生を変えることがある。
だから、五体満足でいることがどれだけありがたいことか、
あの何でもない、あたりまえの日々がどれだけ尊いか、伝えてほしい」
彼はもう外に出るのが怖いと言っていた。
「前はさ、歩道の自転車とか人混みなんて、気にもせず歩いてた。
ゆっくり歩く人を見ると、ちょっとイライラしたりして。
でもいまは、よろけて転んだらどうなるかって、誰も気にかけられず起こしてくれなかったら、そればかり考えちゃう。
放置された自転車も、避けることができない自分をみて、『邪魔だ』と言われるんじゃないかって、きっと、自分がもってた偏見が、自分を苦しめてるんだなって思うんだよね」
その言葉に、私は深くうなずくしかなかった。
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授業で習った「アドボカシー」――
介護福祉士は、声をあげられない人の代弁者になる。
その意味が、ようやく腑に落ちた気がした。
私はまだ、彼の語りを十分に伝えきれていないかもしれない。
でも、この「まなざしの先へ」に書くことで、
少しでもその声が誰かに届けばいいと、そう思っている。
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私、ほんとは飽きっぽい性格なんです。
でも、このテーマだけは、最初から最後までぶれなかった。
それだけ私を動かした、衝撃の出会いだったんだと思う。
始まりは――
あの、提灯の光だった。
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※補足メモ
東郷平八郎さんの戦勝行列があったのは、日露戦争勝利直後の1905年(明治38年)。
語った女性が当時5歳だったとすると、2025年現在で125歳相当ということになります。
それでも、語りは今に息づき、聞く者の心を動かす。
それが、「語ること」の力なのかもしれません。
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「その手のひらの奥に、いのちの書がある」
開かれた本は、ただの記録ではなく
あなたのまなざしが触れることで、
長く閉じられていた頁が、そっと音を立てて開かれる。
誰にも読まれなかった、ささやかな営みの物語。
それは、失われたのではなく、
今、この瞬間に語られることで、
はじめて世界に灯る光となる。